それは祈りの姿に似ていた

右手と左手を合わせると力を循環させることができるらしい(荒川, 2003)。今日はこのことを考えてみよう。
自らの身体に触れること。それは能動的に触ろうとする体と、受動的に触れられる体が同時に体験される。右手の手のひらを左手の手のひらに合わせるとすると、右手は能動的な(つまり意志を持った)身体として左手に触れるのと同時に、左手に触れる受動的な(つまりモノとしての)身体にもなるわけだ。
能動的な身体は、世界を俯瞰するような超越論的「私」の視点(世界は私が認識する限りに存在するという視点)を取るのに対し、受動的な身体は世界内に属するような物質的「私」の視点(私は他者と同様に世界にただ存在する多数の中の一に過ぎない、という視点)である。このとき、自らの身体に触れるということは、超越論的「私」と物質的「私」が作用-反作用として、循環することになる。
つまり、全は一、一は全なのであり、「世界」と「私」の眩暈を誘うような運動が一瞬のうちに起こりうる。このような循環を利用して、世界と私を理解し、分解し、再構成するわけだ。
しかし、荒川(2003)によればただ手を合わせてそのような力を発動させるには、構築式がすでに内在化されている必要がある。これまでの研究では、力の発動に成功したのは1人の先駆的事例と、その弟子達による2人の共同研究しか確認されていない。その背景には生命倫理に触れる実験が必要とされるため、データの蓄積は困難であるとされている。
今後の実証的研究が待たれる。


引用文献
荒川弘 2003 鋼の錬金術師 6巻 スクエア・エニックス

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