価値・規範の成立

今の僕の研究テーマは「行為の適切性判断はいかにして可能か」だけど、そこで中心となってくる社会規範についてあれこれ考えている。
前に書いた、適応論と社会規範についても、まだ決着はついてない。このあたりに詳しい人いないかなぁ。
で、今考えているのは「論理的整合性だけから、価値体系が導けるか」という問題。直感的には、無理っぽいという結論がでてきそうだけど、いろいろ考えてみるとそうでもないかも。


議論が二転三転するけど、ご容赦を。
「論理的に妥当なことがよいことだ」という命題は、まぁ、論理の整合性をよしとする価値を含んでいるから、すでに論理だけじゃないんだけど、そこは我慢しよう。つまり、「論理的に整合的なことは価値がある」、あるいは、「論理的に整合的じゃないことは、よくない」という大前提を置こう。
なぜその前提がここで出てきたかというと、どんな前提から出発しても、結局「ある前提から論理的に展開したものでないと、我々は妥当ではないと判断する」からだ。具体的には、「人の命が一番大事だ」という命題があったとして、「車で人を轢く」という事象の価値を考えよう。普通に考えれば「ダメ」だろう。しかし、その間には、「車で人を轢くと、人体に大ダメージを与える」→「人体にダメージがあると、死ぬ可能性が高い」→「前提から、車で人を轢くことはよくない」、となる。
つまり、我々は価値の判断をするときに、前提のさらなる前提として、「論理に整合的に価値を判断する」というのがあるのだ。まぁ、もちろん論理的に妥当なことが「よい」というのは、「価値を論理的に判断する」ということは違うことなんだけど。でもまぁ、ここではとにかく、「論理的な整合性がないとお話にならない」としよう。
で、「論理的に整合的なことは価値が高い」という前提があったとして、そのような価値システムは可能か、という問いである。そう考えると、可能なように思える。しかし、ここには奇妙な構造がある。
先ほど書いたように、価値判断は、論理の整合性に支えられている。で、「論理的に整合的なことは価値が高い」という前提は、価値判断基準を価値の前提と置くという普通の価値判断の構造とは違ったものとなっている。つまり、価値判断基準そのものが価値が高い、というわけだ。
ここで僕が持つ奇妙な感覚は、「論理的に整合的なことは価値が高い」という前提は、価値の前提としてやや不十分なんじゃないかという気がするのだ。いうなれば、家を建てるのに柱が4本必要だけど、2本を1つのところに持ってきて、無理やり(柱は4本だけど、3点で支えているような)家を建てているような感覚だ。
なんでこんな問題を考える必要があるんだと疑問に持つ人もいるだろうけど、構造構成主義が示している価値体系がそういう構造を持っているんじゃないかと思ったからだ。
この問題に対して、僕は明確な答えをまだ持っていない。そして、僕が持っている違和感を上にすべて言語化できたという感じも、実はない。まだなにかある気がするのだけど、とりあえず思考の記録として残しておこう。明日見たら、書いていることがバカらしく思えていることを願う。

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