論理とは対象ではなく、操作である

どうも。
そろそろ順番に仕事を片付けないとどうしようもなくなってきたので、はじめてます。大きな仕事が1つ、小さいのが2つ、自分の仕事が2つ、期限を決められてないけど早くしないといけないのが1つ。


前期ヴィトゲンシュタインの一番の発見は、論理のアプリオリ性を発見したことだと思うのです。論理があるから人は何かを共有できる。規範とかを考えていると、論理のアプリオリ性を無視できない用に思うのです。
だからこそ、論理の外のことは語りえない、つまり言葉にできないことがどうしても存在してしまう。言葉は完全じゃない。しかし、だからといって、そのまま沈黙してしまうことはもったいない。また、だからといって言葉(論理や思考)をなおざりにして「あいまいに」研究することも違うと思うのです。
限界まで語ること。必死に考えて、それ以上無理なところまで考えて、そして語りえなさを感じることが、人間しかできない(機械にもできない)面白いところなんだと思います。
だから言葉を使って考えることは、言葉遊びでもなんでもない。そして言葉を信じ過ぎることも危険だ。語りえないからって、深く考えずに感覚だけで研究をするのはやめよう。と、自分に言い聞かせてみたり。感覚だけで研究をすることは、逆に言葉を信じすぎていると思うわけです(語りえないことを無理やり語っている、という意味で)。
上の文章の「言葉」を「統計」に変えたら、嫌味ですかね。

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