高野山

昨日は、お彼岸ということもあり、高野山に行ってきました。
車で。坂道カーブの連続でちょっと酔いそうになる。
奥の院の雰囲気が好きなんです。なんかいそうですよね(意味不明)。ああいう、昔からあって変わらない雰囲気ってのがすきなのかも。小さいころからよく来てるから、懐かしいというのもある。
というわけで、昨日は帰ってきてから本を読んでたら眠くなってしまって、友人からのメッセの音で目が覚める。意識がもうろうとしていたので、何を会話したのか覚えてないけど、東浩紀の新しい本のことを話していたような。動物化するポストモダン2が出たようで。そういや、アマゾンからメールが来てたな。
いまさらながら、東浩紀の「存在論的、郵便的」を読み直しているところでもあったので、勢いで買ってしまおうかな。新書だっけ?
今日は今から、免許の最終試験です。一応、復習しておこう。


論理が飛躍するということについてちょっと考えてみた。
論理の飛躍ってのは、誰から見ても飛躍しているわけではない。本人は、おそらく飛躍してないと思って話している。自分が何を話しているかわかっている限り、論理は飛躍しないと思う。
例えば、感情的になると論理的じゃなくなるという。まぁ、確かにそんな気がする。しかし、感情的に話すといっても、論理的じゃないと話せないと思うのだ。
「(私は怒っているから)嫌なのだ!」とか。論理というのは、ある公理から論理操作を用いて、真偽(もちろん、真偽以外にもいろんな判断基準がある)を判断するものだ。つまり、論理操作は間違えてなくても、公理(あるいは定理)にないものを使ってしまうのが、論理の飛躍なのだ。
感情的になると、社会的に共有された公理や定理を使うのではなく、自分の関心に基づく公理を使用してしまうということが問題となる。だから、飛躍しているように思えてしまう。本人にとっては、きっと飛躍していないのだろう。
つまり、重要なのは、「論理的に話をしよう」ではなく、「同じ公理系で話をしよう」と持ちかけるべきなのだ。数学者どうしだって、自然公理系で話をしてたのに、急に実数公理系で話をされたら困るだろう。
日常言語だって、非常に論理的だ。ただ、公理系が定まってないから、話がわからなくなってしまうことが多々あるのだ。たぶん。きっと。

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