役に立つことと、納得できること

科学という営みにおいて、役に立つとことと、納得できることはどちらが重要だと考えられているだろうか。
昨日後輩としゃべっていて思ったことをメモしてみる。
役に立つこと→どのようにすれば、それができるのか。
納得できること→なぜ、そうなのか。
これらには、HOW的な疑問とWHY的な疑問という「問い方の違い」がある。
この問い方の違いは重要だ。HOWだけの研究は「なんか説明が欲しいな」と思うかもしれないし、WHYだけの研究は「それは一体なんの役に立つんだ?」とか思ってしまうかもしれない。
分散分析やパス解析をやってみました的な研究は、HOWだけの研究といえるかもしれない。なんでその有意差(パス)が重要なの?って聞きたくなる。データは「なぜそうなのか」を一切教えてくれない。「そうであるらしい」しかわからないからだ。なぜ?と聞いて、「データがそういっています」は何の答えにもなっていない。
逆に、理屈詰めの机上の空論は、「で?」という答えが帰ってくる。なぜ?っていう問は無限に問うことができるので、いつまでもなぜなのかを考えててもキリがない。ある程度の人が納得できるレベルをさぐらないといけないのが難しい。
時間が無いので、とりあえずここまで書いてみた。要はバランス?


話がいろいろ錯綜します。メモですから。
科学は、「なぜ」を問うことはできないという主張がある。根本的になぜかを知ることはできないからだ、という。なぜ重力があるのか。なぜ人はいるのか。これらの問は、原理的にはわからないし、答えたとすれば宗教に近くなる(あるいはそのもの)からだ、という。なぜ人は苦しむのか。それは神が試練をうんぬん。
「どうすれば」を示すこと。これが科学と宗教の違いなのか。水は熱すればお湯になる。相手にあわせれば好意を持ってもらえる。これらは、「どうすれば」的営みだ。
でも宗教も、どうすれば救われるのかについて比較的わかりやすく教えてくれる。信じたり、祈ったり、悟ったり、まぁいろいろしないといけないが、教えてくれる。
まぁ、似たりよったりということだろうか。僕が思うに、違うとすれば「わからないことに対して、わからないといえること」なのではないか。厳密に考えれば、原理的にわからないという結論にたどり着けるかもしれない。それ以降は、仮定をおいて構築していくという「とりあえず」の姿勢で進んでいく。仮定はあくまで仮定であって、人によってその納得の程度は違うかも知れにない。
掘り下げていったら、もしかしたら何も無かった、ということもあるかもしれない。どうしようもないところまでいってしまうかもしれない。それでも、最後まで直感に頼らない姿勢は時には大事なのかもしれない。

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