世界の共同主観的存在構造

廣松渉です。この人の哲学も読もうと思ってちゃんと読んでなかった的な代表例。
なんとなく知っていはいたが、詳しく知らないという。
で、共同主観性についての本を読もうと思ってたので、これになりました。

世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫 (998)) 世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫 (998))
(1991/11)
廣松 渉

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タイトルの漢字が多いこと!
内容としては、いわゆる「独我論」は、そもそも「主観-客観」という認識構造を前提としてしまっていることから導かれる問題であり、その前提を問い直すと、共同主観的な世界が見えてくる、という話。
論の展開のしかたは、直感主義的というか。よく言えば経験的にわかりやすい。でも、原理的にはもうちょっとつめられそう。結局、意味の同一性を仮定してしまってるんだなぁ。それじゃあ、主観をモナド的に捉えるこれまでの立場と、基本的なところでは変わらないじゃないか、と思ったり。
ここから意味の同一性そのものを可能にする機構について問うと、もっと面白くなるんではないか。
あと、別の本読んでて思ったのだけど、公理論的現象学とか面白いんじゃないだろうか。現象学にもいろいろ仮定があるわけだけど、どの公理を認めたらどういう認識構造になるのか、ということを考える現象学ってありだと思う。現象学が思考についての原理をつきつめる方法論なら、思考(あるいはコミュニケーション)の公理系を形成するのに用いてもいいはずだ。
その意味で、廣松渉の哲学を大森の「立ち現れ一元論」を公理として組み立てたら、いい方向に行くんじゃないかな、と妄想してます。でも、ぶっちゃけ哲学のことよくわかんないので、「お前は何もわかってない」といわれたら、即座に「その通りです」と言う準備はありますが。

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