西田哲学

西田幾多郎の入門書が出てたので買ってみた。
前から気にはなってたのだけど、西田哲学はほとんどしらなかった。それで一度読んでみたかったので、ちょうどよかった。
善の研究とか、原著読んだことないけど難しいらしいという話だけは何度か聞いたな。でも、せっかく日本語で書いてるんだから、ドイツ語とかフランス語よりは読みやすいだろうし、読んでみるかな。


で、入門書を見る限り、かなりオモシロそうだ。「場所」という概念の考え方が特に面白い。見方によってはオートポイエーシス理論と通ずるところもあるし、大澤真幸(行為の代数学)のいう「書き込まれざる囲い」とかなり近い概念ではないか。
つまり、原理的には私そのものの実在は疑えてしまうし、「私の」思考である必要もないのである。私とは、思考を可能とする場所なのだ。このような、対象化しきれないような場所としての概念を西田的に、無と呼ぶらしい。
志向性が「~として」という作用であるなら、場所は「~において」という、事象をささえるような何かなのだ。
このような意味で「場所」を考えると、心の内部と外部という2項対立も解体できる可能性があるんじゃないかと思った。思考の場所として私があるなら、コミュニケーションの場所としての「わたしたち」があってもいいんじゃないか。そんなことを考えてみた。
まだ読んでる最中だけど、西田哲学に興味が出てきました。

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