ひっさびさに本の紹介
語りえぬものを語る (2011/07/08) 野矢 茂樹 |
カテゴリーや分析哲学にあたる本だけど、非常に読みやすい。というか読みやすい本しか僕は読めない(笑)。
野矢茂樹の本は比較的よく読んでいるけれど、どれも難しい問題をわかりやすい言葉で論考を進めてくれるので、哲学が専門じゃなくても何とか読めるし、わかった気になってしまうという素敵さがある。
タイトルを見れば、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考を思い出すと思うが、まさに論考以降の話を展開してる。なので、一応論考か、野矢茂樹の「論理哲学論考を読む」を読んだ後に読んだ方がよりわかりやすいし、楽しめる。
扱う内容は多岐にわたっていて、思考、相対主義、言語、規範などに及ぶ。しかし、それぞれに一貫した理論があって、その理論に基づいて読み解き、さらに理論を発展させていく流れになっている。なので、最初からざーっと読むことをお勧めしたい。
結論という結論はないのだけど、明らかに思考が一歩進んだ、そういう感触を得ることができると思う。「続き」に、僕自身の考えを書いてみるが、できれば直接この本を読んでその感触を得てみてほしいと思う。というぐらい、オススメです。
僕は規範の研究をしているので、それに則った話をしたい。しかし、ブログでダラダラ書くぐらいなので、まったくまとまっていない。でもまぁそれでいいと思って、とりあえず書くことにしてみた。間違えているのは前提なので、気にしない。
そして、紹介した本とは反対に、ここから書くことは読むことを、まったくもってオススメしない。
まずは語りえぬものってなんだ、という話。ヴィトゲンシュタインでは、真理値が確定できる(論理空間内で表現できる)ことを指している。つまりは論理空間の外は、語りえないことだから何も言うな、ていうのが論考の最後の主張である。
それに対して、野矢は論理空間という枠組みと、その枠組みによって確定される意味という構図を乗り越えようとしている。仮に論理空間を共有していても、我々は世界を同じようにみているとは限らない。また、論理空間を共有してなくても、相手の言っていることがわからないわけでもない。
そこで、私的言語の不可能性や規範のパラドックスなどに触れつつ、世界を相貌という観点から論じようとする。相貌とは、「~に見える」という、「見え」である。同じものを見ても、我々は違う相貌をとらえることがある。同じ犬でも、怖い動物に見えたり、可愛い動物に見えたりする、という感じに。ここで重要なのは、相貌はただの主観的な知覚ではないということ。知覚は概念的でないものも含むが、相貌は概念のもとに知覚することである。そして、私的な概念は不可能である以上、相貌は私的ではなく公的な知覚でもあるのである(すべての人に共通了解可能という意味ではない)。
そして、相貌は語りえるものである一方、語りえないものに支えられている。人々は世界を相貌として見えるが、世界は相貌そのものではない。相貌を見ることと同時に、そうではないもの(世界そのものと言いたくなるような)が語りえないものとして我々を取り巻いているのである。つまり、語ることは、語りえることだけでなく語りえないものをどうしようなく我々につきつける、というわけである。
ここまで書いて、疲れたので続きはまた次回。おい、規範について何も語ってないぞ。