そんな季節なので、バーゲンとか行ってみました。
手袋がほしかったのです。さすがバーゲン、安かった。
あと服も。一体どれだけのジッパータートルネックを買えばすむのかわかんなけど、買いました。好きだからいいです。マフラーつけなくてもいいのは便利。
コートもほしかったけど、高い・・・。なんでバーゲンなのに高いのか。
勝手に私信。
事実は像ではないように思います。
事実はのっぺりしたもの、と表現があったと思いますが、取り出したもの(写像したもの)が像ではないかと。
三 事実の論理的写像が思考である。
つまり、事実を、言語の論理形式に基づいて再構成することを思考と呼ぶ、といってるのではないかと思うのです。
言語が写像に不可欠であることを明示的に論考では書いてませんね。しかし、
二.一 われわれは事実の像をこしらえる。
とか、三.一節全体を通して、命題の分析が事実と像の真・偽判断に必要であることを述べているのだと思います。
像化の能力は、まさに絵を描くことができる(絵を描こうと思う)ことと密接に関連しますね。メルロ=ポンティとかが同じようなことをいっています。
もし事実=絵という「メタファー」を使うなら、その対象を浮かび上がらせること(輪郭線)が像化であると、比喩的に言うことはできると思います。ただ、絵そのものが像であり、像は事実ではない、ということを1つ(2つになってる!)言っておきたかった(わかってるとは思いつつ)というわけです。
像化に関しては、後期ヴィトゲンシュタインの「哲学探究」で述べられている、「アスペクト論」が詳しくて、かつ面白いです。
両義図形(例えばウサギにもアヒルにも見える図形)を例に、それを「ウサギとして見る」こと、つまり模様ではなく意味のある「~として見る」ということができないと、どうなるかという話があるのです。
そのことについては野矢茂樹の「心と他者」(勁草書房)に書いてます。
では。