進化心理学の本とかを最近は読み漁ってましたが、まぁぼちぼち飽きたので、経済学の勉強にシフトしてきました。
個人の行動と集合的な均衡についての話は、やっぱり経済学がかなり進んでますね。とりあえず基礎的な勉強をしてから、比較制度分析までたどりつきたい。日心のWSの影響をもろに受けてますね。
でも、こういうときって、もろに影響を受けてどっぷりはまっていくが大好きです。「今はやるときじゃないな」ってのは、頭で考えるんじゃなくて、どっちかっていうと感性的なものに頼ってます。やりたいときにやる。
逆に言えば、「今これやらないとまずいよね」ということができなんですけどね。英語の論文書くとか。英語の論文書くとか。ええ。自己制御苦手。
いいわけさせてもらえば、やりたいときにやりたいことをするのが一番効率いいんじゃないかということですかね。そういう環境にあるのはとってもありがたいことですけど。
ソーシャルニューロサイエンスも、WSの影響を受けて勉強したくなってきてます。とりあえず経済学いってから、ニューロエコノミクス経由でもいいかなとは思ってますけど。
余談というかなんというか、目的関数をおいたモデルじゃないモデルってどんなのかなと思ったら、やっぱりMCMC的なモデルなのかなと思ってました。最適値を求めるんじゃなくて、ミクロ的なルールを置くといつのまにか巨視的に収束するという。でもこれって、複雑系とかの発想と一緒なんですよね。
結局はシミュレーション。
規則と規範の弁別は、やっぱり意味の問題に行き着いてしまった。規則は弁別するけど、選択はしないんだな、という。これは結局、外部的に観測するか内部的に観測するかという問題に近いと思う。
もうちょっと正確に言えば、その観測自体が系に影響を与えるかどうか、ということ。外部的に観測するというのは、系に影響を与えないが、内部的な観測ってのはその要素から見た観測だから、系そのものに関与する観測になる。それはつまり、観測そのものが規則維持に寄与しているということ。
この違いってのは、日心の重層性のWSにおけるテーマに大きく関連すると思う。あの議論の平行線は、この弁別が無自覚なところにあるんじゃないか。外部観測的なサイエンスはとても魅力的だけど、心とかコミュニケーションとか意味の問題を扱うなら、不十分だと思う。
意味を科学で扱う意義は、もしかしたらあまりないのかもしれない。よくわからないし。でも、人は意味の中で生きているし、生きていることの意味さえも考えてしまう。それについて語れない社会科学ってなんなのさ。