構造構成主義的コミュニケーション理論

 新たな科学哲学・メタ理論として最近注目を集めている、構造構成主義ですが、その提唱者である西條剛央氏が社会心理学会に入会したようです。古いニュースですが。
 僕も構造構成主義には興味があって、それなりに本とか読んでました。
もともと池田清彦の「構造主義科学論」をベースに理論を構成しています。構造主義科学論は簡単に言えば「外部世界(客観的世界)を想定しなくても、共通了解可能な理論(ここでは構造)を構築可能である」が骨となる主張です。つまり、物理のような厳密な自然科学と同じく、生物学や心理学も同様に客観性(客観的な世界があることをいってはいない)が確保できる、ということです。
 また、理論の評価は現象をどれだけ説明できるのかにあり、客観的な手続きなどにあるわけではないことも同時に主張します。
 構造構成主義はそこから一歩すすんで、人間科学における構築主義VS実証主義なんていう信念対立を回避するために、現象学における「関心的相関(研究者の目に映るのは、研究者にとって関心があることに相関する)」という概念を持ってきます。科学理論は共通了解可能な構造として位置づけられ、また研究者はその評価を関心に相関するように行う。しかし、多くの人の現象を説明しうるものでないと他の人に価値は見出されない可能性もあるわけです。
 このような議論によって、構築主義は正しいが実証主義はダメ!みたいな不毛な議論をせず、どんな方法であろうとどんな視点であろうと結局理論は「共通了解可能な構造を作り上げること」に違いないのだから、生産的に役立つ研究、説明できる研究をしていこう、と主張します。
 ブログで理論のすべてを説明することは不可能なので、興味がある人は詳しい論理についてはブログを読んでみてください。


こっからは僕のつぶやきです。思考の記録と言うべきか。
 構造構成主義の論理自体は十分理解できるし、この時代に主張することに価値はあると思う。ただ、現象学から出発することによる(潜在的な)欠点として、他者とのコミュニケーション可能性が「まだ」開かれてない点があげられる。
 つまり、仮にこれを科学論としてのみとらえたとしても(西條氏はおそらくメタ認識理論として考えていると思うが)、他の研究者とどのような「学コミュニケーション」が展開されるのかが、まだ不明瞭である。もちろん、構造構成主義の主張をシンプルにするためには、削られてもいい部分ではあるが。
 ここで僕がいいたいのは、構造構成主義が独我論にとらわれているとか、そんなことではない。むしろそれは乗り越えている(共通了解可能性によって)。乗り越えているからこそ、コミュニケーションの新たな理論展開ができるかもしれないのにほうりっぱなしはもったいない、ということだ。
 西條氏(正確には池田清彦の構造主義科学論)は出発点を現象学においているが、それは方法的現象主義であり、それを絶対基準としているわけではない。要は共通了解可能性を開くための道具として使っているわけだ。 構造構成主義全体の流れを見る限り、他者は確実に存在しなければならない。そもそも信念対立を回避するためのメタ理論であるのだから、前提として複数の自我を仮定している。
 ならば、もっと「他者」を積極的に取り入れるべきだ、と僕は思う。構造の構成は個人の主観的な思考によるものでかまわないが、共通了解の段階は現象学から出発する間主観性のプロセスにほかならない。そのことは、構造構成主義も現象学も否定しないだろう。
 そこで、さらなるコミュニケーション的(間主観性的)構造構成主義を考えるならば、西垣通の基礎情報学はかなり重要な位置を持つように思う。オートポイエーシス理論やルーマン社会学を元に構築された「基礎情報学」は心的システムの閉鎖性を仮定しながらも、その上位システムである社会システムが作動することによる共通了解可能性を開いている。このとき、上位システムとは物理的・空間的に全体-部分関係となるようなものではなく、システムの作動の制約関係(上位システムは、それ自身の作動によって下位システムの作動を制約する)である。具体的には、人が心の中で何を考えていようと、社会システムには直接的に影響は及ぼされない。しかし、社会システムでコミュニケーションが生じれば、それに参加している人はそのことを考えないわけにはいかない、というわけである。
 この階層構造の導入は重要である。(共通了解可能な)理論とは、実は頭の中でできるのではなく、コミュニケーションによって(社会システムの作動によって)構築されるのである。コミュニケーションにおける言語・記号の構造化こそが科学的営みなのである。もちろん、ここまでくると「原理的思考」ではなく、すでに科学理論としての意味が強いのだが。
 上記の議論は、個人の思考による記号の構造化=理論化というモデルを否定するものではない。むしろ、個人個人でそれらの構造認識がズレていることが十分にありうることからも、積極的に肯定すべきである。しかし、心的システムも独自に構造を生成するが、それが社会的な意味(共通了解可能なものとして)で理論となるのは社会システムの作動によるはずである。
 僕の思考としては、この段階以降はまだうまくまとめられてない(上の内容もまとまってない!?)のだが、共通了解可能性と関心的相関という概念から出発した新しいコミュニケーション理論構築も十分可能であるように思うし、また僕的に魅力的でもある。ソシオン理論との整合性もつけられるだろう。そのあたりも頭のどっかで考えていこうと思うのだが、そんな余裕があるなら論文書けよとどこかで誰かがゆってます。

This entry was posted in 研究生活. Bookmark the permalink.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Note: 他の人のコメントに返信したい場合は,[Reply to 名前] のボタンを押してください